上五島歴史と文化の会

『古事記』では「知訶(ちか)島」、『日本書紀』では「血鹿(ちか)」、さらには「国生み」から生まれた島として記されるなど、五島列島は古代からの歴史の層が積み重なった島。中世の歴史も興味深いものがあり、この日本最西端の島々がどのような意味を持っていたのかを、古文書『青方文書』(長崎県文化財)などをもとにした勉強会で紐解いていこうとしているのが、会員登録数約70名の「上五島歴史と文化の会」です。地元の方々を中心にした会では年に6回ほど、外部から研究家を呼んだり、教育委員会と一緒に実際に史跡巡りをしながら、故郷の歴史探究を続けています。

「上五島を学ぶには、五島列島全部の島々を知るべき。たとえば五島を統治した五島家(最南端の福江島在住)も元々は宇久島(最北端)から来ているし、小値賀島にも歴史のつながりがある。それぞれの島々に渡り、現地でフィールドワークしたほうがいい」と、上五島歴史と文化の会の事務局長・永田寛孝さんは語ります。
「その島へ実際に行くことでわかることもあれば、現地の島の方々に教えてもらえることもありますからね」  
五島歴史と文化の会ではこれまでに、青方文書を研究した『五島列島の中世史』、五島家についての『五島秘史』、8世紀頃からの歴史を辿った『五島・若松瀬戸物語』を出版してきました。

「ぜひ若い方々にも島の歴史と文化に感心を持ってもらいたいですね」とおっしゃる永田さんたちは、五島列島の先人たちが築いてきた歴史にロマンを感じ、そして学びながら、意義ある活動を続けています。

上五島歴史と文化の会は偶数月の第3土曜、上五島公民館などで開催されています。新規会員募集については、毎年4月頃に新上五島町の広報誌で案内を出したりするとのことなので、ご興味のある方はぜひいかがでしょうか。
 
上五島の『隠れキリシタン』と信仰

五島列島は“教会の島”といわれます。五島列島全体で50もの教会があり、さらには新上五島町だけでも29の教会があります。リアス式海岸の入り組んだ浦々の集落に、ひっそりと隠れるように佇む教会は、五島のキリシタン信仰と数百年におよぶ迫害の歴史を静かに物語っています。

五島のキリスト教の歴史を遡ると、1587年、安土桃山時代に豊臣秀吉がバテレン(宣教師)追放令を、1596年にはキリシタン禁制を発令。江戸時代に入ってからは1612年に徳川家康がキリシタン禁教令を発令。さらに1626年には「キリシタン五島入島禁制」が発令され、明治初期までの250年以上に渡り、キリスト教徒への厳しい弾圧が続いていました。1873年(明治6年)、明治政府によって禁教の高札が外され、信仰が黙認されるようになったのはわずか130年ほど前。それまで国内のすべてのキリシタンは、皆、隠れキリシタンだったのです。

若松島の最西端には、現代でも船でしか渡れないという場所にキリシタン洞窟があります。ここはかつて、明治初期に弾圧から逃れてきたキリシタンたちが潜伏していた洞窟です。4カ月ほど潜伏していましたが、洞窟内で暖をとるためか食事のために焚いた火の煙が見つかってしまい、ここも弾圧されてしまったといわれます。明治6年には弾圧が解かれたはずでしたが、五島での弾圧はさらに何年も続いていたのです。

そのキリシタン洞窟をご案内していただいた渡し船の船頭さんが、「実は私は、隠れキリシタンの神父(帳方役)をやっております。私で9代目です」と語りかけてくださいました。
弾圧が解かれて130年以上たち、隠れて信仰を守る必要があるのだろうかと思う方がいらっしゃるかもしれません。しかし、弾圧され続けた250年の歴史のほうがはるかに長く、命がけで守り、その命をつないできた先祖から大事に受け継がれてきた信仰なのです。

潜伏してきた長い間、仏教徒などを装うために土着の信仰と混ざり合わざるをえず、現代のカトリック信仰とはまったく違うような様式となっているようですが、 「私たちは何百年もの間、ずっと形を変えずに現代までこの信仰を伝承してきました。むしろ、キリスト教が伝来した頃の原初の祈りの言葉を守り継いでいる部分もあるともいえるのです」

いま、隠れキリシタンは五島にはわずか10世帯しか残っていないといわれています。
「どこで途切れるかはわからないが、先祖から受け継いだ大事な信仰を、自分たちで守れる限りは続けていきたい」 代々受け継いできた信仰を船頭さんは、そう語ってくださいました。

 
日本のうどんの発祥地は、五島列島中通島だった!?

日本人が大好きな食べ物のひとつ、うどん。中国で生まれた「麺」が日本に伝わり、全国各地で独自に発展しておいしいうどんが誕生したといわれます。讃岐(香川)、稲庭(秋田)、水沢(群馬)が日本を代表するうどんとして有名ですが、五島うどんを「日本三大うどん」のひとつにあげる声もあります。しかしどのうどんを「三大」に数えるかは、ちゃんとした定義もないのでここでは触れません。

五島には古くからうどんがありました。うどんづくりの工程で椿油を使うのが五島うどんの特徴ですが、それは島の人の間だけで食べられていました。麺の特性からして他の地には広まりにくかったのです。これが「幻のうどん」と呼ばれる由縁です。

さて、この幻のうどん「五島うどん」が日本のうどんの発祥であるかもしれないと、うどんのルーツを調査された方がいます。中通島の出身で旧上五島町の教育長をつとめられた吉村政徳さん、現職は奈摩郷地区にある政彦神社の宮司さんです。自ら中国に渡り調査されたということで、五島うどんのお話をお聞きしました。

「九州の西方に位置する五島列島は、遣唐使の時代、船が寄港する場所でした。中国からやって来る遣唐使船には1艘に何百人もの人が乗っており、大陸の文化が寄港地である五島にもたらされるというのは、ごく自然の流れです。大陸の食文化が、ここ五島にいちばんに伝わるということはけっして不思議なことではありません。

私は「うどん博士」と異名をとる国学院大学の加藤有次名誉教授から、「うどんは中国から遣唐使船が伝え、その製法は五島から全国に広まった」こと、そして「そのルーツは中国の『索麺(さくめん)』にある」ということをお聞きしました。早速、中国の麺について調べ始めました。中国にはなんと400もの麺の種類があるそうです。その中から折江省温州市近郊の永嘉県に「索麺」という麺があるということがわかりました。それでは現地まで行ってその麺を調べてみようと、中国まで行ってみました。

私はその永嘉県の「索麺」を見て、本当に驚きました。そこで見た麺の製法が、五島うどんと何から何まで同じだったのです。そこはうどんを作らない家庭がないほど、村全体がうどんの里という感じでした。気候も五島と非常に近かったですね。それで五島うどんのルーツはこの「索麺」に違いないと確信しました。

大陸から伝わった麺は、中通島の船崎という地区から広まり、現在の「五島うどん」になりました。遣唐使の時代といえば7世紀から9世紀のこと。いまから1000年以上も前から、五島の人はうどんを作っていたことになります。うどんに関する研究はまだ途中段階で、発祥地を限定するにはいたっていません。しかしそれだけに古き時代に思いをはせて「五島うどん」を食べてみるのも、壮大なロマンを感じられるかもしれませんね。


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